令和6年能登半島地震視察研修ふりかえり

 令和6年も年末を迎え、能登半島地震発生から1年がたちます。7月26日に石川県輪島市へ震災の視察研修へ会員5名で行ってまいりましたので、振り返りたいと思います。

 同日、全国建設青年会議第29回全国大会 第3回準備会が福井県で行われ、松谷会長の出席に合わせて、研修を企画し実施しました。

 企画にあたり、美田会員の知人が七尾市にお住まいで被災され、訪問することや交通事情、留意すべき事項など状況を確認しながら、地域に迷惑をかけないルート選定など準備を進めました。

https://maps.app.goo.gl/J9Av8wcnomQvtL2t8


 まず、七尾市に向けて向かう高速道路でも大きな災害の状況を目の当たりにしました。

応急復旧して開通していても、まっすぐに走れないぐらい道路は大きくうねりいくつもの場所で大規模に盛土が崩落している脇を走行しました。走行する反対車線が崩落し中央分離帯のガードケーブルが宙に浮いた脇を走行するような状況でした。
 高速道路のレベルで作っても、この状況であれば、市町村道までを考えるとかなりの箇所において復旧が必要であろうと思います。

 珠洲市など能登半島のさらに奥へ向かうためには、幹線道路が少なくアクセス手段が限られること、その少ない幹線道路が大きく損傷していることなどから、半島であるが故に金沢市や富山市といった都市圏から能登半島の先端に向けて端から順に開通させないと奥まで資材・器材が輸送できないという地形的な特徴もあります。

 応急対策を行いながら本復旧を目指す工程が複雑である上に、東北の内陸側から海岸方向に向けて南北一斉に多方向から復旧活動へ向かうことが出来た東日本大震災とは異なる、復旧の大変さも実感しました。
 水道の復旧が進まないと言われるのも同様の理由であり、隆起などによる地形の変化が大きく復旧すべき管路延長が長いのもよくわかりました。

 輪島市では、報道等でもなされていた輪島朝市や市街の現況なども徒歩で見学しました。

 輪島朝市では、がれきなどの撤去がかなり進んでいましたが、付近一体が焼失したという現地を見ると、災害に強い土木建築構造物を造ることの大切さとともに、火災の延焼などを考慮した都市計画の大切さも感じました。



 市街地では、まだ撤去に至らないがれきが至る所に残り、躯体ごと根元から倒れた様な状態で残る建物や、一見被害のない様に見える建物も、地盤ごと沈んでしまっているホテルもありました。倒壊しない建物を建設したとしても、地盤の影響を抑えるのは難しい問題です。 

 また、現地の方のアドバイスをいただき、輪島市門前町の鹿磯漁港(かいそぎょこう)にも訪問しました。鹿磯漁港は、隆起が最大約4mに及んだそうで、能登半島全体は歴史的に隆起を繰り返して出来た土地であるものの、今回のレベルの隆起は数千年に一度の事であろうとのこと。


現地に着いてみると、防波堤の内側に船が係留されていましたが、


その船は、陸地の隆起によって全く岸壁に接岸出来なくなっていました。


 

 ぱっと見で建物も、護岸も港湾施設自体が損傷しているようには見えず、防波堤の内側に海水だけが無くなったように見えます。渇水時のダムような光景でした。

 この隆起も東日本大震災では見られなかった現象だそうで、岩手、宮城、福島では被害をうけた漁港は港湾施設の損傷と地盤沈下による被災が主で、係留施設のかさ上げなど基本的に現地で復旧対応をしました。

 一方、今回の隆起という問題は港内の開削や桟橋新設などで復旧方法の検討もさることながら、「そもそもその場所に復旧させるべきかどうか」が、判断できていない港も多いとのこと。
 漁港というのは、昔からその土地で風や波の穏やかな場所が栄えて港となる場合が多く、そもそも数mの隆起によって環境が変化した場合、その場所が漁港に適さなくなっているかもしれなく、そうであれば新しい漁港適地を探すのかどうかから判断が必要になるそうです。
 建設業に携わる我々としても、港に限らず、技術的にその場所を元に戻すことは出来たとしても、環境そのものが大きく変化した場合、違う観点から復旧にすら取りかかることができない、または復旧させない判断がありえるという状況に、まさに自然の力を感じ、その影響の大きさを感じました。



 能登半島地震発生から1年がたちます。改めて被害にあわれた方々にお見舞い申し上げると共に、この学びを地域でどのように活かしていけるか考える機会をいただきました。


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